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気功の学校・開校の辞

気功の学校・2006年の授業がスタートします。

「気功の学校」という授業スタイルは、
2002年4月の「気功の学校・エレメンタリー」講座からはじまり、
以来、様々な形で練られ、次第に成熟してきました。
そして、2004年の年末に春秋社から出版された「気功入門」は
「気功の学校」のエッセンスと言えるものです。

最近、そのスタート時に書いた「開校の辞」を読み直してみました。
今となっては恥ずかしい面が多々ありますが、
開校当初の精神は揺るがずに生き続けていることを痛感します。

以下参考に「開校の辞」を当時の原文のまま紹介しておきます。

開校の辞

 気功の学校は、学ぶ気持があれば、どなたでも入れる学校です。この学校には偉い先生はいません。これが絶対というカリキュラムや、ねばならぬという押し付けもありません。少しだけ道の先を歩いている仲間がいて、その場に応じて自在に変化する自然の学びの場があります。
 十数年前、気功はまったく未知のもの、そして不思議の塊でした。今もわからないことがたくさんあるし、ワクワクすることもたくさんあります。気の世界は尽きることのない楽しみを私たちに魅せてくれます。しかし、その楽しみはあるところを境にして見事に二つの、別々の道に分かれていきます。
 一つは学んだことに溺れていく道、もう一つは、学んだことに生かされていく道です。「私」が失われていく道と「私」が「私」である道と言い換えてもいい。今の消費社会の構造と同じで、溺れることはたやすく、感覚はにぶり、大事なものが見えなくなり、欲求はエスカレートする。溺れていることにも気付かないし、自分が無いから道連れを求め、何かに寄り掛かろうとします。この連鎖は勇気を持って断ち切らなければなりません。
 気功の学校は学んだことに生かされていく場です。それは教える側の問題であると同時に、学ぼうとする人がどのように受け取ろうとするかに大きく左右されます。
 まず第一に、一方的に受け取るだけでは無く、学びの場づくりに参加しているという主体的な気持が大切です。意識は場の空気を変え、全体に影響します。
 第二に、自分固有の物の見方や考え方を、その場ではとりあえず捨ててみること。誰一人例外なく、自分の偏ったものの見方で物を見、偏った聞き方で聞き、偏った感覚で感じているものです。それをどれか一つでいい、そのひとつを意識して変えると、新しい世界との同調が始まります。すると、すっとその世界に入っていけます。
 そして、第三に、学んだことを自分の感覚として確かめ、再現しようとすること。これは、頭の知識としてではなく、学んだことが身につくために、とても重要なポイントです。感覚は使わなければ錆び付き、使えば使うほどどんどん豊かになります。
 ここ数年間で得た気功協会の活動の成果には特に大きなものがあります。この間講師として協力してくれた人達、講座に参加してくれたたくさんの人達、そしてそれを支えてくれた会員の皆さんに心から感謝したいと思います。そのどこが欠けてもこうした有機的な学びの場は生まれてこなかったでしょう。おかげさまで、素直に、そのままに伸びていくことができる、そうした心身を育むための原則や最低限必要な技術が見えてきました。今回開講する「エレメンタリー」講座はその集約として生まれたものです。英語で小学校のことをエレメンタリー・スクールと言います。エレメントとは要素、ひとつひとつの元々の形、最初の構成元素を意味しています。最も単純でシンプルな形から気功の学びを初め、まずはその確かな土台を手に入れてほしい。そして、飛び立つ準備ができたなら、自由な気の大空に自らの力ではばたいていってほしい。そうした願いがこの講座の中に込められています。

 それでは、これから一緒に楽しい気功の旅の準備をはじめましょう。

2002年4月20日 天野泰司

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