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March 2006

気功の学校・氣楽編五

「一事実」と並んで一燈園のありかたを示す短文に
「光明祈願」があります。

この「光明祈願」には「暫定」と記されていて、
その解説には「不二の光明は宇宙に遍満する陽光の如し。物あり、之に触れて色々の光を発す。光明祈願は即ち起稿者識界の現象に過ぎず。添すべく、削すべく、正さざる可からず、改作又不可なし。暫定と名づくる所以なり。」と書いてあります。
この「暫定」というのはいいなあと思い、気功協会の「会員の心得」を作った時に暫定としました。
興味のある方は「入会のしおり」に書いてありますのでご請求ください。

光明祈願は5つの文からできていて、
その第1文は「不二の光明によりて新生し、許されて活きん。」、
第2文は「諸宗の神髄を礼拝し、帰一の大願に参ぜん。」とあります。
こうした一文一文にもまた天香さん自身が解説を記していますが、
第2文の解説の中に「別に一宗を立てず、単に一派に偏らず、古今聖者の光を仰ぎ徳を頌し、その遺されたる事業を成就せんことを期す。」と記されています。
この文章に出会ったのがちょうど気功協会という新しい集まりを立ち上げる時だったので、私なりに気功にあてはめて解釈させてもらいました。
不二の光明とは、気功で言えばあるがままの自然の働き、それも自分のからだの中に元々あるものと言えます。その原点に立ち返って、活動自体も無理に背伸びをしたり、新しい何かを創り出そうとするよりは、気功の原理と同じように無理のない自然の働きにそった活動をしていこうと心に決めたのです。
実を言うと、これはなかなか勇気のいることでした。
それは、一般的な組織や経営の考えとはまったく違っていたからです。

そこにぴったりはまったのがNPO法人という新しい法人の形でした。
NPO法は、阪神淡路大震災でのボランティアグループの目覚ましい活動が注目され、今まで法人格のなかった市民グループにも法人格を与えて、市民による自由で主体的な社会貢献活動を活性化させていくことを目的に創られた法律です。
気功協会がNPO法人という活動のスタイルを選択したのは「自然の原理にかなった活動」を自由に選択することができ、そうした自然の原理そのものを社会全体に広げていくことに大きな意味があると感じてのことでした。

また従来の中国的な気功観もその全体を一つにまとめながら新しいものにしていく必要があることにも気付いていました。
「別に一宗を立てず、単に一派に偏らず」というのは心にピタッと来ました。
シンプルに「気功協会」という名前に決めたのはそのためです。
これもなかなか勇気がいることでした。
別に一つの「なんとか気功」を創ることは自分の責任だけですから簡単ですし、
一つの流派だけを代表してやることも先生の言う通りにすれば良いのですから簡単です。
またなんでもありで矛盾を矛盾のまま放置しておくことも簡単です。
目指すのはそのどれでもない、共通の基本原理を整理し、共通の神髄を求めていくことでした。
それは6年経った今具体的な形になりつつあります。

当時は暗中模索、そこに劉漢文先生や長谷川淨潤先生との出会いがあったのです。(つづく)

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2006 春の入会キャンペーン

kikounyumon
NPO法人気功協会
2006春の入会キャンペーン
がスタートしました。

先秋のキャンペーンがとても好評でしたので、
この春も入会者先着15名に
『からだの自然が目を覚ます 気功入門』の
サイン本をプレゼントします。
著者からの一言メッセージが好評です。

プレゼント希望の方は必ず入会申込のメッセージ欄に
「サイン本希望」とお書き添えください。

今年は、基本に戻っての初歩からの講座が多いので、
入会には良いタイミングです。
この機会にご検討ください。

気功協会の活動の趣旨に賛同頂ける方は
どなたでも会員になることができます。

また、気功協会の非営利社会貢献活動は
みなさんの会費が支えています。

気功協会は
全ての人が、自分自身の力で心身ともに健康になっていくこと
誰もが本来持っている、からだの自然の感覚を復興していくことを目的として、
そのためのやさしくて効果のある方法を
気功として整理普及しています。

正会員は 入会金4,000円 年会費6,000円(500円/月)
賛助会員は 入会金なし 年会費一口30,000円 です。

資金的に活動を支えて頂ける方は、賛助会員でご入会ください。
グループや団体は賛助会員でお願いします。
10部程度までの必要部数、会報をお送りできます。

春の入会キャンペーンはこちらからどうぞ。

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杭州

koshu
2006年3月末に杭州への旅を企画した。

気功の学校・卒業旅行、
4日間の杭州・西湖畔滞在だ。

「気功の学校」は、
2002年4月に開講した「気功の学校・エレメンタリー第1期」以降、
エレメンタリー講座が今春で第6期を数える他、
「気功の学校・教える」
「気功の学校・佐渡」
「気功の学校・エッセンス東京」
「気功の学校・支笏湖」など、4年間に十数回を数える。

今春の卒業旅行はその一つの到達点。

旅行のねらいは、
「生活の中での気功」
気功が生活になり、生活が気功になる
その一つのモデルケースになるだろう。

同じ学びを共有した卒業生の仲間だからできる
とっておきの卒業旅行。

杭州はひと足早く春が訪れ
3月末には、
柳の新芽が吹き
一面の菜の花が咲き
龍井の新茶がとれ
桜の花が開いている
と、ある方より聞いた。

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2003.11.8 日常生活の中の慈悲  

(2003エッセイより移転)

dalailama
 11月5日、奈良県文化会館・国際ホールで「日常生活の中の慈悲」というタイトルの講演を聞きました。講演者はダライ・ラマ法王14世・テンジン・ギャツォさん。法王さんは今回、伊勢そして奈良を初めて訪れ、奈良では興福寺、東大寺にお参りされ、その夜講演会がありました。

やわらかく暖かな空気
 講演中終始感じたのは、力強い言葉の響きとは対照的に、法王さんからふんわりひろがってくるような柔らかく暖かな空気でした。英語からの通 訳でしたが、通訳の間は、体を少しゆらしたり、会場のあちこちを見渡しては、微笑んだり、手で合図したりしてとても楽しそうな様子でした。子どものような純真な感じでいて、なおかつものごとを深くよく考え、慈愛に満ちていることが直接的に伝わって来ます。そんな仕種を見ていると、こちらもやわらかくゆるんできて、思わず微笑みが溢れます。
 こんなふうに「直接伝わっていく感じ 」というのは、私たちがいろんな人と出会う時に心得たいものの一つ、そして気功を通 じて伝えたいことでもあります。法王さんにお会いすることができて、そのことをはっきりと再認識しました。


仏教が仏教を超え、宗教が宗教を超えた日
 講演のテーマは、仏教からも、そして宗教からも離れ、「私たちが人間として幸福に過ごすためには何が必要か」ということでした。その内容からすると、「慈悲」と訳した日本語訳だと、仏教的な感じが残っているので、英語のまま「compassion in daily life」の方が意図がよく伝わるかもしれません。特別な難しいことではなく、日常的にある、共感、思いやり、いたわり、あるいは愛情といった、自分にも他人にも暖かみを与えるような心のあり方のことですね。
 「ひとりひとりの心に平安がおとずれる一番簡単な瞑想を紹介してください」との質問に、どんな答えがあったと思いますか。「私の体験からお話すると、分析的な瞑想をするのがよいと思います。心を一点に集中し、お祈りや祈願をしてただけでは、一時的に心が静まっても、また同じ状態になった時にはまた同じ怒りの感情がでてきてしまいます。怒りがどのような悪い影響を与え、いかに無益なものであるかということを分析し、そのことをしっかりと理解すれば、次に怒りの感情がわいてくるような状況にあっても、怒りの感情に対処できるでしよう」と、普段私たちがなかなか気付かずにいる、本当に当たり前の事をさらりと説明してくれました。

 そうした、心の問題を解決し、心をより良い状態に変えていくためにこそ、仏教が生まれ、様々な修行法が生まれて来たという原点に今やっと立ち返ったように思います。
  仏教が生まれてから2500年。物質的環境はずいぶん変わりましたが、人間の心は変わりません。心の悩み、心の葛藤は変わらず存在していて、だれもが幸福を求めています。この心の悩みを解決する具体的な手法の一つが「日常生活の中での慈悲」の実践、つまり、自分の心の働きの一つ一つを冷静に観察し、分析していく中から、よりよき心のありように日々なじんでいくことだと、法王さんはみなさんにお伝えしたかったのではないでしょうか。

この時の公演記録は
『ダライ・ラマ慈悲の力』(春秋社)
として出版されています。

1300年の時を経て
 日本に仏教が初めて伝わり栄えた奈良の地、当時の為政者たちは、人々の幸福と心の平安とを心底求め、とてつもない大きさの大仏さんを鋳造したのでしょう。正倉院展で光明皇后さんの願文入りの写 経を見て、強く心に響いてくるものがありました。

 私たちが本当に幸福に生きるために必要なのは、自分の心を自分で好ましいようにコントロールできる方法を学び、整理研究し、誰もができるように簡単にし、広めていくことではないかと思います。そのために、当時大仏鋳造に費やしただけの情熱とエネルギーを注ぎ込めば、人と人とが無用な争いに明け暮れることもなく、世界の大半の人々の精神的な幸福は比較的容易く実現してしまうのではないかと思います。

 気功をしていくことは、自分の心身をより好ましいと思う方向へ変えていくこと。
 気功を伝えていくことは、自分の心身ををより良く変える方法を伝えていくこと。

 「心身の自然の原理」を学び伝えていくこと。それが私たちの大きなミッションです。

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2003.1.1 気功的経済

(2003年エッセイより移転)

 大晦日に最後の発送作業を終えて仕事を納め、つきたてのやわらかいお餅を御供えし、伊勢のおかげ横町で仕入れた注連縄を玄関にかけました。注連縄には「笑門」と書かれています。2003年が、みなさんにとって幸多く、笑いの絶えない年になりますようにお祈り申し上げます。


日本一明るい
 朝日新聞の新年1日版に「?日本一?明るい経済新聞」の記事がありました。新聞を読むと、暗く重たい記事ばかりでうんざりすることがしばしばですが、明るい面 に常に光をあて続ける経済新聞は大阪を中心に3万部を発行。編集長、記者、営業を一人でこなす父を見て、娘さんが自発的に手伝いだす様子に、仕事の原点のようなものを感じました。

 自分が他の人達に対して、どれだけ有意義なことをしていけるのか、という、そのことが中心になって仕事をしている人達の話を聞くと、本当に胸がスーッとして、清々しい感じがします。その対極に位 置するのが、お金を儲けることが中心になって仕事をしている人達。大富豪がそうかと思われがちですが、実のところは金額の問題ではないと思うんです。お金がたくさんある人も、少しの人も、お金を中心に考えて動いている場合と、本来の仕事の心を中心に動いている場合の両方があり得ます。お金にばかり心がとらわれだすと本来の仕事ができなくなってしまう。かといって、お金のことを棚にあげてしまって本来の仕事のことだけ考えていると、お金が回らなくなって、仕事が続かなくなる。この矛盾をどう断ち切り、新しい経済生活を創るか?その答えに非常に近いところにNPOがあると思います。
  社会奉仕として志す活動を、非営利で、しかも自力で運営し続けていくのがNPO法人。お金のために働くとか、労働の対価を得るという考え以前に、まずみんなのためにこの仕事をやっていきたいというモチベーションがあって仕事をしていくのが、NPOで働くということの第1義。本当に有意義なことをやりたいようにやるという自由度こそがNPO法人に与えられた最大のメリットです。ただ、言われた仕事だけをするのではなくて、何をどのようにしていくのかという主体的判断ができる人材がそこに求められます。そして、その自ら工夫し新しい何かを生み出していく力こそが、運営の活力になり、確かな次の事業に向けて経済的にも安定した土壌を生み出すことでしょう。

お金という便利な道具
 お金は本来はとても便利なお道具です。効率良く役割分担をして仕事をし、お互いに足りないものをあるていど公平なレベルで自由に補い合うことができます。しかし、お金はその便利さから一人歩きをはじめ、お金さえあればなんでもでき、幸せになれるかのような幻想を生み出してきましたが、みなさんご承知のように、お金があることで不幸な人達もたくさんいます。
 問題は、お金そのものではなく、お金に対する執着心です。執着心をなくすということは、一般 にはとても難しいことと考えられがちですが、私たちはみな執着心のない子ども時代を過ごしてきているのです。だから、そこに戻るための方法さえあれば、執着がまったく無くなることはないにしても、あまり執着しなくなることは確かです。
 気功が本来目指している自然の状態というのは、まさしくそうした執着のない、子どものような純真無垢な状態です。そこに立ち戻った上で、理知的判断力を持って便利なものは活用し、正しく運用していくことが必要です。気功という自然回帰の基本技術をそうした役にぜひ用いていきたい。もっと根源的には、子どもに戻るという以前に、子どもの純真な心と感受性をそのままに育んでいけるような社会と教育の環境を整えていきたいのです。
 気功ということを学びながら新しい執着を作ってしまう場合も多々あるので、そこのところはいつも気を引き締めて、しかし、子どものような自由闊達な心と、こぼれるような笑顔をいつも忘れずに活動していきたいと思います。

気功的経済
 道具というものは、使う人あってのものです。道具に使われるのではなく、道具は道具として目的のために便利に使いこなす。そこに、良い仕事と、物心両面 の潤いが生まれることでしょう。私たちが活動で得る様々なお金は、全て一時的な預かりものであるというように、常々感じています。また、お預かりするお金を正しく生かすことによってのみ、お預け頂いた方々への本当の返礼となり、 またそうした活動こそが真の経済活動となるのではないかと思うのです。こうした、執着のない本来の経済活動のことを仮に気功的経済と呼び、その実現に向けて着実に歩みを進めていきたいと思います。

 

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2002.10.10 気功を伝える

(2003エッセイより移転)

 ここのところ「気功を教えたい」「資格はどうすれば取れるか」などの質問がよく来るようになりました。一般 的な習い事のほとんどには資格認定制度がたいていあるものですが、ちょっとまてよと考えてみて下さい。資格というのは魅惑的ですが、いいことばかりではありません。気功に資格は必要ですか?そもそも気功とは何ですか?何を伝えていきたいですか?
 今、気功の普及と指導者の育成について考えていく時期です。気功が自然な形で広まることにみんなの意識を集めて、具体的に動き始めましょう。

土台
 気功を自然なものとして実践していくことが私たちの最も大切な土台です。
 特別な習い事としてではなく、生活の中でこそ、その真価が生かされるような、日常的なこととして気功を伝え広めていくことが、私たち気功協会の願いです。
 もう一つの大切な土台は、ひとりひとりが自立した個人としてあることです。
 気功を自然なものとして伝えるには、何に頼る必要もなく、自らの体の自然に気付いていくことと、相手の自然を認めていくことがあれば十分です。従って、気功を伝えるのに資格は基本的に不要。ただし、社会的な要請もあるでしょうから、臨機応変に考えましょう。
 気功との幸福な出会いが広まっていくには、入門段階と、指導者を育てるための基本プログラムは最低限必要です。
 気功で伝えるべきことを3つに絞れば、

* 第1に、自然ということ
* 第2に、感覚を深めること
* 第3に、自ら立つこと


 の3点ではないかと思います。 原理として大切なことはいつも不変、そして、その方法は時と場合によって変幻自在です。

共に学ぶ
 自然の働きを生かすことを学び、感覚を深め、自立を促進していくには、伝える側と学ぶ側の垣根をできるだけ取り払うことが大切です。また、自らが成長していく後ろ姿が、学ぶ側に伝わりますから、無理に背伸びせず、いつでも発展途上というスタイルが望ましいでしょう。
 感覚を育み、自分を信頼して歩んで行く、その最初の部分をていねいに学ぶことが、理想的な気功の入門であり、かつ指導者育成のプログラムになるでしょう。 今、エレメンタリー第2期を企画中です。 共に自然を学んでいきましょう。

「気功生活Vol.14」より
 
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*道場にできるような場所を
  探しています。
 高槻近辺。
  理想は畳の広間。 50畳ぐらい。
  環境が良くて、駅から近いところ。
 NPO法人気功協会にならと、
  安く貸していただける方
  いらっしゃいませんか?

(2003エッセイより移転)
 

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2002.9.11 争いのない生活

(2002年エッセイから移転)

争いのない生活というのは可能だろうか?
 人とは争いたくないと思いながらも、日々小さな争いが生活の中にたえないのはいったいなぜでしょうか。その小さなことが解決できれば、世界全体の平和はきっと実現するにちがいありません。

 平和問題というのは遠い世界のことでも、だれか偉い人が決めることでも、また、なんの努力もなしに突然訪れるものでもないでしょう。
 自分の生活の中に潜んでいる争いの原因を取り除くことに、もっと智慧を出し合わなければなりません。そしてその生活ということを中心において、日々を充実させていく必要があります。

zange
 大正10年7月、春秋社から出版されベストセラーとなった「懺悔の生活」という本があります。著者はまさしく「争いのない生活」を真剣に考え、その生活を実践し、またその生活により、多くの人を感化してきたその人、西田天香さんです。人々は親しみをこめて天香さんと呼びますが、その天香さんの生活は、まぎれもない一つの事実として、争い事のたえない現代社会に一条の光を与えてくれるものだと思うのです。

 その生活の一つ一つについては別にゆずるとして、ここでは、その最初の転機と最終的にたどりついた結論だけを手短に紹介したいと思います。

 1904年、天香さん32才の時に転機は訪れます。きっかけはふと聞こえてきた赤ん坊の泣き声でした。自分が食べることで争いの原因になるなら何も食べないと決意して断食を続ける中に、赤ちゃんの泣き声がして、しばらくして泣き止む。乳を与える母と飲む子の間に、自然の、争いのない関係を悟り、自分もそのように生きようと決意し即、実行しだしたのです。

 その生活のために働かない生活は一燈園生活として現代にも生きています。私もたまたま縁あって、子どもを一燈園の小学校に預けることになり、父兄としてその一端を伺うことができたのです。縁というものは本当に不思議なものです。

 「無一物中無尽蔵」。全てを捨ててしまえば、自由自在、全てが自分のもの、尽きることはない。とは、天香さんの生活を端的に示している言葉です。天香さんの書は、その後に「有花有月有楼台」と続きます。ただ自然の造型と美と楽しみがあると歌っているのでしょうか。
 一燈園の学校では、冥想の時間はあっても何か特別なものを拝むということがありません。 作られた偶像は無く、正面の丸窓の向こうに、ただ自然があります。

 自然というと、木や草花、山や川などを思い浮かべますが、ここでいう自然とは、そうした自然もそうですが、全てを成り立たせている、今自分がここに生きているというその自然の摂理。そのことを学んでほしいというのですから、一燈園の学校は本当に恵まれた学びの場です。

 「自然にかなった生活をすれば、人は争い合わなくても、また働きを金に変えなくても許されて生かされる」と天香さんは言っています。

 これは理想論でしょうか。少なくともその生活を実践し、幸せにくらした人々があります。それは特別な例でしょうか。私の肌でふれた感触としては、本当に普通の暮らしです。自然の空気が流れ、人がそのままの自分でいられる場所。一燈園というところはそんな感じがします。

 ここに一つのヒントがあります。人間一人一人が本当に生き生きと暮らせるための理想的な社会のモデルがあるように思うのです。

 一燈園と出会った時、「新生」という天香さんの書が、とても印象的でした。乗り越えるべき何かを感じると同時に、新しく生まれ出る生命の躍動感があり、またとても普通などこにでもあるもののように、ただ自然にそこにあるような感じがしました。

 赤ちゃんに戻る、生命の原点にもどる、何もないスタート、自然なままの執着のない状態を実は誰もが一度は経験しているのです。そこに戻れさえすれば、自然にかなった争いのない生活は実現するでしょう。

 そのヒントから私たちのできることを少しずつでも形にしていかなくてはなりません。私たちが目指す理想の社会は、一人一人がありのままの自分でいられて、全てが自然に調和している社会。そのために、心や体の自然のことを学んでいるようにも思うのです。

 「自然感覚の復興」が私たち気功協会の目的です。

(2002年エッセイから移転)

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同調をとる

furiko
3/5
「気功の学校・教える」のレッスンがスタート。
写真は「ふりこ」の同調レッスン。

気功教授法の核心は、
「全体と同調をとり、自らが整う」こと。
その同調のレッスンが一日目の中心でした。

2週間の間の学習課題も同調のレッスンに絞っています。

そして、いかにシンプルに自ら整っていくか。
これが次回のテーマです。

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気功の学校・氣楽編四

harunotudoi
 今回の気楽編では、一燈園の話をしましょう。

 一燈園とご縁ができたのが、ちょうど二〇〇〇年の春。
長女が、小学校二年に上がる時に、地元高槻の公立の小学校から山科の一燈園小学校に転入したのがご縁で、今春には上の娘が中学二年生、下の娘が小学四年生になります。
 先日は、子供たちの作品展と男子は剣道、女子は日舞の発表会がありました。
 一燈園の学校では、学校の正課として、日舞や剣道、高校生は仕舞と能などがあり、伝統的な所作や礼節を自然に身に付けてしまうカリキュラムになつています。
 お能は三年ほど前から取り組み始めていますが、正式な装束や面をつけて舞うもので、年々レベルが上がり見ごたえがあります。
 そして、今回の圧巻は日舞の「鶴亀」。華やかな着物姿の中学一、二年生。その踊りの素晴らしさに会場全体が息をのみました。

 今回の発表会を見てもそうですが、一燈園の学校を見ていると、最近学校が荒れて教育が問題だとか、子供たちの集中力が無く学力が低下しているとかいうことは、どこか別の国の作り話のような感じがしてしまいます。
 この目の前にいる子供たちの目が輝いている、この学校全体が生き生きとした学びの場に、そして、安心できる生活の場になっているという事実がそう思わせるのです。
 こんな学校がここにあります。という、ただそれだけのあたりまえのことが、漠然とした不安を抱えがちな私たちを、心の底から勇気づけてくれるのです。それだけ、ただあたりまえにあるということが難しい時代だということなのでしょう。
 気功が目指しているものは、この「ただあたりまえにある」ということです。そう申し上げるとたいそうがっかりされる方がありますが、自然というのは「ただあたりまえにある」ということに他なりません。そのあたりまえを目指していろんなことをしているのです。

 一燈園には、その名もずばり「一事実」という短文があります。
 「ここに一つの事実あり」から始まるこの「一事実」は、毎朝の瞑想の時間や節目節目となる行事の時にみんなで唱えます。私が始めてこの「一事実」を聴いたのは、二〇〇〇年の春の集いの時でした。四月中旬のおだやかな春の日、子どもたちと一緒に疎水を越え、一燈園の門をくぐります。庭はよく手入れされていて春の花が咲き、山々の緑が鮮やかです。手のひらにのりそうな小さな子どもの聖徳太子のお像をお堂からそのお庭の正面に遷し、小中学生を中心にお祈りが始まります。「一事実」を唱和する小学生の声は特に元気です。
 そのはきはきとした、勢いのある無邪気な声を聴いていると、ぐっぐっと心が動いてくるのですが、その一事実の言葉が耳に入ってくるにつれて、さらに目頭が熱くなり、心が洗われるような大きな感動を覚えました。
 「一人あり!十字街頭に立つ!人なれども光明をうけて活ける者の如し!或は合掌して何物かを拝し!或は人の家に入りて下駄を揃え庭を掃き!便所を清め納屋を整理す!…」と子供たちの高らかな声が自然の景観の中にしみ込んでいくのです。

〈次回、気楽編五に続く〉

一燈園の学校 燈影学園のホームページはこちら

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