« 気功の学校・氣楽編 三十六  | Main | うごいてやすむ 第3刷 »

「愚か者の誓い」が明るみになったことの意味

足立区立中学校の2年の学年主任をしていた教諭が、忘れ物をした生徒に対して、「愚か者の誓い」というタイトルで反省文を書かせていたことが、10/31に明らかになったという。この事件のことを耳にして、人間の心の進歩を促す意味で、象徴的な出来事だと思った。「愚か者の誓い」が明るみになったことの意味を考えておきたい。

「愚か者の誓い」のプリントは、ニュースサイト等で実際の画像を見ることができ、
およそ、以下のような形式になっている。
------------------------------------------------
愚か者の誓い
私は、愚かにも(    )を忘れました。
「私が愚かでした。もう○○○を忘れません」を7回書く。
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
------------------------------------------------

4年ほど前から行っていたそうだが、その4年間に、このプリントを書かせ続けていたことが黙認されてきたということは、生徒も、同僚の先生方も、保護者もそのことをあるていど教育上仕方のないこととして我慢し黙認して来たと言えるだろう。

そうした意味で、単にある一教諭の責任として何らかの処分をして片付けてしまうような問題ではなく、人間が自分や相手の心をどのようにして好ましい方向にリードしていくことが出来るのかということを、教育界全体、あるいは社会全体として考えるきっかけとして浮かび上がって来た事件だと言えるのではないだろうか。

まず、このプリントが生徒に及ぼす効果を分析してみたい。

忘れ物をしてしまった!
そのことに気づいた時点で、本当にそれが大変なことであると分かっていれば、誰しも自責の念が生じる。それは、思春期の透明で壊れやすい感受性からすれば、感覚が鈍って来ている大人の想像を遥かに上回る感情の動きがあるということが、まず第1に重要な事実である。

そして、次に忘れ物をした生徒は、強制的に「誓い」を書かされることになる。「いやだ」という、どうしようもない大きな感情を伴いながら先生に提出する。すると心の中にはどのような影響が残るのかということを心理学的に考えてみよう。

あまりにも大きな不快感のために、自責の念が消える。
そして心の中に、「私は愚か」「○○○を忘れる」ということが強烈な不快感とリンクした形で深く刻み込まれることになる。またその結果として予想される反応は、人間の心の働きから推察するとおよそ以下のようなものである。
・主体的な行為ができなくなる。
・自分で自分の過ちを正せなくなる。
・無意識に劣等感を持つようになり、生きていくことを苦痛に感じるようになる。
・愚か者だから忘れ物をしてあたりまえと無意識に思いこんでしまう。
・気をつけているつもりなのに、同じものを忘れてしまう。

もし、こうした効果まで予測出来ていたとしたら、良識ある教師がこのような稚拙な過ちを犯すはずはなく、「心の仕組みや働きに対する無知」が本当の問題だということが分かるだろう。程度の差こそあれ、同様の過ちは日常的に多くあり、私たちは、心のことをもっとよく知る必要があるといえる。

では、忘れ物をしてきた生徒に対してどのような対応をするのが適切か。
最も重要なことは、忘れ物をしたことがなぜいけないことで、そのことでどのような不都合なことが生じるのかを、生徒が自ら気づく機会を適切に与えることだろう。その「自ら気づく」ことを引き出すことが本来の教育であるが、教師は日々の多忙さに翻弄され、そのための経験知が教育現場から消えてしまったようにも思える。そこで、原点に立ち返って、人間の心を成長させるために、どのような叱り方、褒め方をするのが適切なのかを考えてみよう。

 悪い行いをただ「悪い」「いけない」と指摘するだけなら誰でも簡単に出来る。しかし、それだけでは相手をその悪い状態に縛り付けることはできても、相手を変える力にはならない。そこで、必要になるのが無意識、(=潜在意識)へのアプローチの方法である。野口晴哉氏は著書『叱り方褒め方』(全生社)の中で、潜在意識の側から子どもたちの指導法を説いている。的外れな褒め方をしていると、大人が甘く見られ、子どもがわがままになる。一番痛い傷口を直接叩かれれば誰でも反射的に防衛的になり、逆らうようになる。だから「褒める時は的を射る」「叱る時は的を少しずらす」のだという。感情的に怒ったり、大声を張り上げたり、拳を振り上げたりすること、あるいは、相手に強烈な不快感や劣等感を与えることは、叱ることとは全く別物だ。「一番重要なことに自分で気づかせる」ことが大切なのだから、心の中から改めようという気持ちが自然に湧きおこってくるためのヒントを出すようなアプローチが必要だ。そうした叱り方ができるためには、心の余裕と冷静かつ的確な判断力が求められるであろう。また、褒めるべきことをピタッと褒めるということも、的確な観察力と集中力が伴わなければ、なかなかできることではない。晴哉氏が求めるのは、そうして大人たちが自分の感性や能力を研ぎすましていくことなのだが、普通の読者にとっては、提示されたハードルが高すぎて、現状に甘んじてしまう人が多かったのではないかと思う。

今、私たちに必要なのは、少しずつでも、確実に学んでいける心の舵取りの方法ではないか。そう考えた時に、一番に思い浮かぶのは、一人一人の夢を実現させていくための潜在意識の活用方法である。例えば、そのようになって欲しいことを、過去形で「○○になりました」と書いておくと、実際にその書いた通りになるということが、かなりの高確率で起こる。その仕組みは、「書いた」という行為が、すでにそのことが叶っているという暗示になっているからであり、過去形で書くことでさらにその暗示が強調されることになるからだ。
ここで本題に戻って、「誓い」を読み返してみてもらいたい。最も強調されて心に残るのは、「愚か者の誓い」というタイトルだろう。その次に「私は愚か者です。」という書き出しのフレーズ。これでは、愚かになるという望みを叶えるための方法になってしまうことが分かると思う。救いがあるのは、くり返し書かせていることで、くり返すことで感覚は鈍るので多少効力は薄まることになる。もし忘れ物を防ぐためであれば。「忘れると不便だから、今メモして忘れておきなさい。そうすると今度それが必要な時にはちゃんと持って来ているかもしれないね」という指導であれば、そこそこの成果は上がってくるだろう。心の余分な抵抗がなくスムーズに受け入れられるようにして、潜在意識の中に必要なことを伝えていく。そうした工夫なら、誰でもある程度慣れてくると自然に出来るようになるものだ。

気功協会で気功をする時には、こうした無意識の働きをできるだけ活用するように工夫していて、なかなかの成果を上げている。従来10年、20年気功を学んでやっと分かってくるような大切なことが、1年ほどである程度身につくところまで来ている。
私は、こうした方法をいわば専売特許にしお金稼ぎのためのノウハウやにするのではなく、できるだけ広く公開して活用したいと思っている。誰もが、心と体の自然の仕組みや働きについて学ぶ機会を持てば、社会全体に大きな波及効果があり、幸せな人が確実に増えていくと思うからである。

11月に入って、福岡県の糸島で開催された、気功愛好者の交流合宿「気脈の会・伊都国」に参加して来た。邪馬台国に関係する遺跡や、海、山の自然にふれ、また、生後1ヶ月の赤ちゃん、89才のとてもお元気なおじいちゃんとふれあう中で、自分の中に、何か新しくて懐かしいような感覚が生じて来た。枝葉として生じて来た幻惑に惑わされず、大元の原点に戻って新しい気持ちでやり直す。そんな時代にさしかかったことを、この事件は伝えているのではないだろうか。

|

« 気功の学校・氣楽編 三十六  | Main | うごいてやすむ 第3刷 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 気功の学校・氣楽編 三十六  | Main | うごいてやすむ 第3刷 »