(2002年エッセイから移転)
争いのない生活というのは可能だろうか?
人とは争いたくないと思いながらも、日々小さな争いが生活の中にたえないのはいったいなぜでしょうか。その小さなことが解決できれば、世界全体の平和はきっと実現するにちがいありません。
平和問題というのは遠い世界のことでも、だれか偉い人が決めることでも、また、なんの努力もなしに突然訪れるものでもないでしょう。
自分の生活の中に潜んでいる争いの原因を取り除くことに、もっと智慧を出し合わなければなりません。そしてその生活ということを中心において、日々を充実させていく必要があります。

大正10年7月、春秋社から出版されベストセラーとなった「懺悔の生活」という本があります。著者はまさしく「争いのない生活」を真剣に考え、その生活を実践し、またその生活により、多くの人を感化してきたその人、西田天香さんです。人々は親しみをこめて天香さんと呼びますが、その天香さんの生活は、まぎれもない一つの事実として、争い事のたえない現代社会に一条の光を与えてくれるものだと思うのです。
その生活の一つ一つについては別にゆずるとして、ここでは、その最初の転機と最終的にたどりついた結論だけを手短に紹介したいと思います。
1904年、天香さん32才の時に転機は訪れます。きっかけはふと聞こえてきた赤ん坊の泣き声でした。自分が食べることで争いの原因になるなら何も食べないと決意して断食を続ける中に、赤ちゃんの泣き声がして、しばらくして泣き止む。乳を与える母と飲む子の間に、自然の、争いのない関係を悟り、自分もそのように生きようと決意し即、実行しだしたのです。
その生活のために働かない生活は一燈園生活として現代にも生きています。私もたまたま縁あって、子どもを一燈園の小学校に預けることになり、父兄としてその一端を伺うことができたのです。縁というものは本当に不思議なものです。
「無一物中無尽蔵」。全てを捨ててしまえば、自由自在、全てが自分のもの、尽きることはない。とは、天香さんの生活を端的に示している言葉です。天香さんの書は、その後に「有花有月有楼台」と続きます。ただ自然の造型と美と楽しみがあると歌っているのでしょうか。
一燈園の学校では、冥想の時間はあっても何か特別なものを拝むということがありません。 作られた偶像は無く、正面の丸窓の向こうに、ただ自然があります。
自然というと、木や草花、山や川などを思い浮かべますが、ここでいう自然とは、そうした自然もそうですが、全てを成り立たせている、今自分がここに生きているというその自然の摂理。そのことを学んでほしいというのですから、一燈園の学校は本当に恵まれた学びの場です。
「自然にかなった生活をすれば、人は争い合わなくても、また働きを金に変えなくても許されて生かされる」と天香さんは言っています。
これは理想論でしょうか。少なくともその生活を実践し、幸せにくらした人々があります。それは特別な例でしょうか。私の肌でふれた感触としては、本当に普通の暮らしです。自然の空気が流れ、人がそのままの自分でいられる場所。一燈園というところはそんな感じがします。
ここに一つのヒントがあります。人間一人一人が本当に生き生きと暮らせるための理想的な社会のモデルがあるように思うのです。
一燈園と出会った時、「新生」という天香さんの書が、とても印象的でした。乗り越えるべき何かを感じると同時に、新しく生まれ出る生命の躍動感があり、またとても普通などこにでもあるもののように、ただ自然にそこにあるような感じがしました。
赤ちゃんに戻る、生命の原点にもどる、何もないスタート、自然なままの執着のない状態を実は誰もが一度は経験しているのです。そこに戻れさえすれば、自然にかなった争いのない生活は実現するでしょう。
そのヒントから私たちのできることを少しずつでも形にしていかなくてはなりません。私たちが目指す理想の社会は、一人一人がありのままの自分でいられて、全てが自然に調和している社会。そのために、心や体の自然のことを学んでいるようにも思うのです。
「自然感覚の復興」が私たち気功協会の目的です。
(2002年エッセイから移転)
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