2005.7.10 気功の学校エレメンタリー最終日
「気功の学校・エレメンタリー」、最終回の記録です。
私のノートを起こしたものを、講師の「とうちゃん=天野泰司」に
校正してもらいましたので、正確になっています! (じゅんこ)
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活元運動では、無意識が主。
と同時に、体を繊細に見ている意識がある。
無意識(=体)が、やりたいことをやっていく状態。
それをこまやかなレベルにしていく。
体にまかせるということは、勝手でバラバラな動きが激しくおこってくる事ではなく、
生命本来の精妙な働きに委ねきっていくこと。
体にまかせているつもりで、頭で作った動きや、習慣化、パターン化した動きになりがち。
そこに、ありのままを映し出す鏡のような意識の働きが大切になる。
しかし、最初から整った動きは求めない。
ただ、体にまかせて、ありのままの動きを出していく必要がある。
活元をやりこんだ人の動きには美しさがあり、背骨がしなやかに動いている。
まるで、禅密功と同じ。
気功は、意識と無意識がバランスして動いている状態。
有意と無意がどちらでもないような状態でいれば、全てが気功である。
どんなことをしていても「気功」になるが
本来のものをねじまげてはいけない。
例えば、神秘的になりすぎると、
お互いを縛り合っていく関係性になりがち。
体に気づく、ということは、
神秘的体験を含むが、それは本来のあるがままの自然である。
今、私たちが生きていること自体が神秘である。
余分な驚きや喜びを持ち込み、神秘化されることで
自然は自然としての輝きを失う。
心配しすぎたり、驚き過ぎたり、喜び過ぎたりすることは不要。
余分に神秘化する必要はない。
ありのままの原点。自然。
いま、ここの 「からだ」というところから離れないことが大切だ。
「当たり前」と思っている日々の行為や思考には
過剰な反応が習慣化していることが案外ある。
心が揺れ動いたときは、原点の体に戻ってみる。
動きをていねいにさがしていくと、心のゆれが体の運動として出てくる。
必要な動きがでると、心は晴れてくる。
感情を、ただ素直に味わってみる。
感情は、押さえたり、忘れようとしたり、気にしないでおこうと思うほどに、凝固しやすい。
積み残さず、自然な形で出していく。
今週の宿題は「言葉の意識化」。
一週間、自分が話す言葉を自分でも聞きながら話す。
ただそのままを聴くだけで良い。
正しく話そうとか、良い話をしようとか思うことはかえって邪魔になる。
「自分が何を話しているか」を照らし出しつづけるだけで、
言葉は自然に丁寧なものになり、自他共に包み込むような言葉になり、
傷つくような、あるいは傷つけるような言葉は次第に少なくなっていく。
しゃべる事で運動のバランス調整をしている人もあるので、
午前中とか、この時間帯とか時間を決めても良い。
独り言も同様に扱う。
また、片耳ではなく、「両方の耳で聞いている」ように意識する。
人の話も片耳で聞いている事が多い。
見る事も片目で見ていることが多い。
どちらも、平面的で、偏りのある聞き方、見方(偏見)になっている。
ありのままを映す鏡のように聞くためには、
両方の耳で聞いていることを意識してみるとよい。
自分の本当にやりたいことを、自ら進んで、自らの力でやっていくことが「自立」。
ときどき、自分が本当に何をやりたいのか考えることを習慣にすると良い。
自分が輝いているような、思い浮かべた時に幸せな感じがすること。
素直に好だと感じる事、やりたいと感じること。
私たちは、生きて行こう、という欲求があって生きている。
自分の本当にやりたいことはなんだろう、と想いめぐらすことは
生きている意味を問い直す事になる。
無意識の中に眠っている本来の自然な欲求を見つけ出し、
そのことに光をあてていく。
自然な要求であるかどうかは、
そのことが実現したときの幸福感を丁寧に味わってみる。
心から嬉しい感じがする、魂が喜んでいるような感じがするものはOK。
その、やりたいことが「かなった」ときの実感を味わって、
幸せな気分で日記をつづっているような言葉で願いを書く。
幸福感の先取り。
書く事は身体運動であり、書く事自体にも意味がある。
叶って困ることは決して書かない。
心の底から、動いていく「種」になる。
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